一週間

東北地方太平洋沖地震につきまして、被災地の皆さまへ心よりお見舞い申し上げます。

どうか一日でも早く、救援物資が被災地に届きますよう。



・・・被災地の状況を見るたびに、何かできないかと気持ちが急きますが。
今の私にできることは、節電をしつつ、しっかりと働いて、募金をすること。(あと買いだめもしない!)
一人でできる事は小さいけれど、それが束になれば絶対に大きな力になる。そう信じて、来週も働いてきます。
半年後、一年後。
一人でも多くの方が安心して眠れるようになるために。


そして以下は、自分用に。

・3月11日(金)

職場にて仕事中。揺れを感じた当初は、「また地震だね〜」くらいで、みなのんびり作業を続けるも、次第に立っても、座ってもいられらないくらいの強く激しい横揺れとなる。
全員、慌ててデスクの下に避難。ガタガタと大きく揺れるブラインド、何かがどさりと落ちる音、緊急の館内アナウンス。
デスクの下でうずくまるも、何かに掴まっていないと身体が投げ出されそうな横揺れが続く。
今まで体験したことがない大きな地震に気が遠くなりそうな中、ようやく揺れが収まる。(2〜3分くらい?)
幸いなことに、フロア内の棚などは一切倒れず、荷物が少々落ちた程度で済む。
身体中の震えが止まらない中、携帯の電源を入れるも、当然ながら一切繋がらない状態。
ヤフーに上がった地震情報を見つつ、この後どうすべきかを上司たちが相談中に再度大きな横揺れが起こり、またデスクの下へ避難。
この状態では続行不可能の判断となり、帰宅許可が出る。
ビルを出る前に、念のため給湯室でサーモに水を補充。今日中に帰れないことを覚悟しつつまずは最寄り駅へ向かう。
最寄り駅に到着するも、電車は全て運転見合わせ、復旧の目処が立たないとのアナウンス。
職場の最寄りは一路線しかないため、歩いて東京駅へ移動することに。
東京駅へ向かう途中、家族に連絡をいれるため東銀座駅の構内へはいり、公衆電話へ。
自宅に繋がり、両親と祖母の無事を確認。今日は帰れないであろう事を伝える。
銀座駅を出ると、どんよりと暗い空模様になっていて、不安が募る。
あちこちから聞こえるサイレン、窓ガラスが割れたビル。公衆電話の大行列。見たことのない光景に足が竦むも、とにかく歩く。
東京駅に到着。大勢の人がごったがえす中、全ての電車が運転を見合わせ、復旧の目処も立たない状態のため、帰宅困難者となったことを改めて知る。
とりあえず食べ物を確保しようと、八重洲地下街へ。途中、キャラクターショップのテレビで地震のニュースを見て、東北地方の被害の大きさを知る。
地下街にてパンを確保し、自動販売機で飲み物を確保。災害用伝言板を使い、家族と妹に安否メールを送ったのち、電池残量を減らしたくないため、いったん電源を落とす。
マフラーを敷物代わりにして、東京駅構内にて電車の再開を待つ。
この待っている間、同じように帰宅困難者となった方とお話をさせて頂く。手持ちのお菓子を分け合ったり、交代でトイレに行ったり、構内アナウンスを確認に行ったり。不安ばかりだった気持ちが少し落ち着く。
JRは終日運休が決定するも、メトロと都営が区間限定で徐々に復旧。
(ちなみに、タクシーは3時間以上並んで1本くるかこないか。しかも都内は大渋滞で車を使うより歩いた方が早いような状態)
復旧後すぐは混雑がひどく乗れないので、少し様子を見る。メトロは本数が少ないものの、終日運行となり深夜2時、メトロを乗り継いで都内に住む妹宅へ向かう。
(東京駅近辺では、皇居と国際フォーラムが避難所として開放されていました)
3時頃に妹宅へ到着。そこで見たテレビの中の光景に言葉を失う。

・3月12日(土)

JRは運休のまま。メトロと私鉄は再開したため、私鉄にて帰宅することに。
昼頃に妹宅を出る。青い空が昼がる良い天気。妹宅近辺は穏やかな日常風景で、前日の出来事は夢なんじゃないかと一瞬思う。
私鉄は大混雑していたものの、地元までの直通に乗ることができ、16時頃に自宅に到着。
ようやくたどり着いた安堵感から泣く。
ひとしきり泣いたあと、妹に到着した旨を連絡。

・3月13日(日)

余震と何度も入る緊急地震速報にびくびく。
夜になり、計画停電が実施されることが決まる。
東電が発表したグループ分けを見るも、2グループに入っていて?マークが飛び交う。

・3月14日(月)

朝起きると、電車が運休や本数減になっていて驚く。
都内に出るためのJRも私鉄も終日運休で、この日は仕事を休む。(交通手段が他に何もないし)
前日と同様、余震と緊急地震速報にびくびく。
この日は計画停電は実施されずに終わる。